プロフィール

所属佐藤企画(業務提携:浅井企画)
本名萩本欽一(はぎもときんいち)
生年月日1941年5月7日
出身地東京都入谷
血液型A型
最終学歴駒込高
学生時代の部活(中学)野球部
サイズ身長:165cm 体重:65kg B:92cm W:84cm H:94cm 足のサイズ:25cm

共演者からは「大将」と呼ばれる。
カメラ会社社長の家に生まれ裕福な家庭で育つが、開発した小型カメラが売れず極貧生活に。
駒込二中では野球部に所属。
「家を建てられる職業」としてプロ野球選手か芸能人を考え、喜劇人を目指す。大宮敏充へ弟子入りを 請うが、「高校を出てからおいで」と断られる。
1959年高校卒業後浅草東洋劇場に入り。演出家から「才能がない」と言われるが、返事がいいと思っていた 池信一が説得。演出かから「芸能界はどんなに才能がなくても、たった1人でも応援する人がいたら必ず 成功する。もしかしたら、お前を止めさせないでくれという応援者がいる。お前は成功するから頑張れ。」 と言わる。
父親の家が火災になりコメディアンを辞めようとしたことが、劇場の関係者からカンパに観劇し コメディアンを続けていくことを決意
浅草フランス座へ出向し、安藤ロール(のちの坂上二郎)と知り合う。
1963年浅草新喜劇を結成。
1966年 坂上二郎が久しぶりに会ってマージャンでもしようよと欽ちゃんの下宿に電話をかける。 会ってみると二人とも最低の状態。「机」のネタを考えたころで、坂上が「机の脚を自分で切って 転ぶのはうそだから、僕が切ってあげるよ」「だったら、二人で組んでやってみようよ」と その場で盛り上がり「コント55号」を結成。コンビ名は松竹演芸場の重役が付けた。 名前の由来は「ゴーゴーゴー」で「進め進め」とか、数字がはやっているから、 王選手の本塁打記録にあやかったなど。
ゴルフのハンディは最高12
「お昼のゴ-ルデンショー」(フジテレビ)(1968年〜1971年)、 「コント55号の世界は笑う」(フジテレビ)、 1969年「コント55号の裏番組をぶっとばせ!」(日本テレビ)野球拳が大ブーム、 「コント55号のなんでそうなるの」(日本テレビ)、 「チータ55号」(TBSテレビ)、 「みんなで出よう!55号決定版」(TBSテレビ)、 「ウォー!コント55号!!」(日本教育テレビ) 「コント55号!!笑ってたまるか!?」(日本教育テレビ) 「ぴったしカンカン」(TBSテレビ)などに出演。 1971年スタートの「スタ-誕生!」(日本テレビ)で単独で司会をつとめる。 1972年「欽ちゃんのドンとやってみよう!」(ニッポン放送)が開始。 1975年から「ラジオ・チャリティ-・ミュ-ジックソン」(ニッポン放送) 1976年「欽ちゃんのどこまでやるの!?」(テレビ朝日)開始。 1976年7月、妻と6ヶ月の長男がいることを発表。 1978年から「24時間テレビ」(日本テレビ系)のパーソナリティ。
ルービック・キュービスト
1982年「欽ちゃんの週間欽曜日」スタート。「視聴率100%男」と呼ばれる。 1985年3月、充電と称して当時のレギュラー番組をすべて打ち切り、半年間ほ ど休養する。
1998年には長野オリンピックの閉会式司会を担当した。
2004年からプロ野球マスターズリーグの広報委員長。
2005年茨城ゴールデンゴールズの監督として活動スタート。
インターネット対戦型麻雀ゲームをやっているが、キーボードが打てないので チャットができない。(2006/01/16 add)
2007年第30回日本テレビ「24時間テレビ」チャリティーマラソンランナーとして70km完走
2008年東京オリンピック招致大使就任。
2008年11月10日から2011年11月9日まで「みえの国観光大使」

コント55号のリハーサルは出入りの段取りだけ。明治座の舞台でも、前年脳硬塞で倒れた坂上二郎に対し、 加減をしなかった。(2005/11/20 朝日新聞)

東八郎を師と仰ぐ
酒は飲めない。 鶏肉はうま過ぎて食べたら止まらなくなるので食べない。
緊張をほぐすためには、飛ぶ。 (2006/02/10 ニッポン全国ラジベガス)

受賞履歴

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